近藤由紀子●1949(昭和24)年1月8日、石川県七尾市生まれ。御祓(みそぎ)小、御祓中、県立七尾高校、早稲田大第一文学部英文学科卒業。72年岩波ホールに入社。2年間の勤務後、結婚、出産を機に退職。二人の子どもを育て終え、49歳で芸術プロデューサーとして復帰。03年に(株)コンコルディアを設立し、平原綾香を発掘、デビューをプロデュース。七尾市で国際音楽 祭を手がけるなど、現在も故郷を大切に活動を続けている。
「本物」と「社会貢献」。
芸術プロデューサーの近藤由紀子さんが作品とかかわるうえでのキーワードだ。一躍人気者となった平原綾香さんのデビュー曲「Jupiter(ジュピター)」を多くの人の力を得て世に送り出したときもそうだった。この曲は、ヒットチャートの上位に入る楽曲によくみられるような、ドラマや映画の主題歌でもCMとのタイアップでもなかった。人の輪が広がるように支持を集めていった。そして、そのころに起こった新潟県中越地震の被災者に勇気を贈った。
資本の論理では動かない彼女の姿勢は郷土の環境によって育まれた。さらにいえば、両親の影響が大きい。
母親は能登の女性らしく、働き者で、信仰心に篤く、義理人情にも厚かった。加えて、映画好きで、近藤さん自身も学校から帰宅すると、母親が馴染みにしている映画館へしょっちゅう顔を出していた。このころの「映画監督になりたい」という漠然とした気持ちが現在の職業につながっている。
父親は陸軍航空部隊のパイロットで、最後は特攻隊員として出陣を待つ沖縄で終戦を迎えた。戦死した仲間のことを戦後も常に思い、生きて帰れたことに感謝していた。そのような歴史の中で自分の命もあると近藤さんは考えている。
一方、経歴はきわめてユニークだ。大学を卒業して岩波ホールに就職したものの、結婚、育児のために2年で退職し、プロデューサーとして仕事に復帰したのは、子育てを終え、子供を社会に還した49歳のときだった。「この世に生きた証として、この世に生かされた恩返しをしたかったんです。それならやりたいことをやろうと」。
大学を卒業した当時は就職難で、特に4年制大学に通う女子学生にとってはなおさらだった。今では有名になった岩波ホールだが、入社したころは社員数4人の小さな会社にすぎなかった。
「2年間で5年分くらいの仕事をしました。結婚式の前日も夜中まで働いていましたから(笑)。会社が有名か無名かなどは関係ありません。ブランド力がないから、力がついたのかもしれません。やっていることに誇りがもてれば、信念をもっていれば、必ず伝わります。また、地道にやっていれば、必ず道は拓いていくと信じていました」。仕事の基礎は学生時代のテレビ局のアルバイトと岩波ホール時代にほとんど学んだ。映写技師からアシスタントプロデューサーまで、ありとあらゆることを経験した。ホールの椅子拭きも時折課せられた。小ホールとはいえ、席の数は232に及んだ。「椅子を拭いていると、お客さんの目線で舞台を見ることができるんです。そこには新たな発見がありました。どんな仕事にも無駄なものはありません。うちに来れば、すぐにプロデュースの仕事ができるものと勘違いしている人もいます。彼らにとって椅子拭きのような雑務はつまらないことに映るのでしょう。でも一方で、若い人たちが私たちの仕事を応援してくれます。お金ではない夢をもつ若者も確実にいるのではないでしょうか」。数年前まで作曲家・ピアニストの加古隆コンサートの多くは近藤さんのプロデュースによるものだ。同氏の代表作であるNHK特集「映像の世紀」の2000年に開催したコンサートは、父親への、そしてかの戦争で亡くなった人たちへのレクイエムの意味と平和を願って実現させたのだという。
ただし、コンサートを開催するにはスポンサーが必要となる。自ら企業を訪ね、営業もいとわない。プロデューサーにはものを創ることとは別の能力も要求される。人脈を築くこともそのひとつ。有名、無名の別なく、出会った人たちを大事にしてつき合ってきたことが、今となっては大きな財産となっている。
「この前、美輪明宏さんのコンサートへ行ったのですが、隣りの席にいた若い女性が『ヨイトマケの唄』を聴いて泣いているんです。私が小学生の時に聴いた歌ですから、大衆に支持されるものは何時の時代にも生き続けるということがわかった気がしました。(岩波ホールの)高野悦子さんは『本物は必ず世に出ます』と言われました。宣伝力は一過性のものにすぎません。人々を勇気づけ、幸せにすることが音楽の根底にあります。会社を起ち上げたときに思った『良質な本物の音楽を創り、人々の胸に残したい』という信念でこれからも続けていきます」。
以前、イタリアを旅したときに、とても親近感を感じた。能登と同じ半島に住む人たちの生活や文化に故郷を見たのかもしれない。やはり半島文化をもつ韓国にも心がひかれている。国を越えて韓国人アーティスト「SoRi」のプロデュースも手掛け、日本の多くの若者との交流イベントを果たした。
つい最近、この業界に入った時からプロデュースをしてきた作曲家・音楽プロデュサー山路敦が初めての長編映画の音楽監督を務め、チェコフィルが演奏、レコーディングをした映画「悲しき天使」(大森一樹監督作品)が湯布院映画祭、東京国際映画祭、京都映画祭に入った時は心から喜んだ。
国境を越えて音楽の旅を続ける現在は旅の途中である。