みちば・ろくさぶろう●1931年石川県山中温泉に生まれる。生家が茶道具用漆器の製造販売をしていたが、動ける仕事を希望し、1950年に上京、料理の世界に入る。銀座「くろかべ」、東京芝浦「ぼたん」、赤坂「常磐屋」などを経て、1971年銀座に「ろくさん亭」を開店。1993年に始まったテレビ番組「料理の鉄人」で活躍し、全国区の人気者となる。1994年6月赤坂に「ブラッセリー六三郎」をオープン。趣味はゴルフ、小唄。
「敵、八方より来たる。我、八方の構えあり」。
修業時代に、新国劇が好きだった先輩から聞かされた言葉だ。いかなるときでも準備を怠らないという意味だが、料理人としては、どんな注文がきてもこなせるように心がけてきた。そして、人の倍は働いた。
「人が2本のキュウリを刻んでいるのを見ると、同時に5本刻めないかと考えたものです。とにかく手を少しでも速く動かせるように工夫し、訓練しました」。
同時に先輩たちに可愛がられた。子どものころから人気者だった。男ばかり3人兄弟の末っ子で、親からは「宝やね」と大事にされた。
またそれに応えるようによく働いた。山へ行っては焚き付けを拾い、金沢の市場へ出向いては買い出しを手伝った。「汽車に乗ってカボチャやサツマイモを運んでいるところを女学生に見られるのは恥ずかしかった(笑)。氷を運ばなければならないときもあり、時間どおりもって行かないと融けてしまう。でも、当時は簡単には汽車に乗れなかったんです。こっそり裏からまわり、隠れて乗ったこともありました」。苦労話にもくったくがない。この性格を慕って、いつもまわりには友人が集まっていた。そのころから旺盛なサービス精神は変わらない。
道場さんは「うまくて安い」料理をめざしてきた。お客さんが喜べばいいとも考えている。
生野菜すら日本料理では使わない時代があった。だが、道場さんは日本料理にはない食材を使うことも珍しくない。ゆえに異端と呼ばれたこともある。若いときは、おかず屋やお好み焼き屋でも働いた。
「高級店には高級店の、総菜屋には総菜屋のプロの手口があるんです。安くするには、速くするにはどうしたらいいか、いい勉強になりました。お好み焼きは焼きたてを食べるからうまい。お客さんが自分で焼くから、味付けに文句も言われませんからなおいい(笑)。京の高級店の何代目という人は可愛そうだと思います。私は何でも自由に創造できますから。異端と呼ばれたのはむしろ誇りです」。
道場さんの名を一躍有名にした「料理の鉄人」では、「和の鉄人」でありながら東西の枠を越えた斬新な料理を創り出し、視聴者に感動すら与えた。出演中の戦績は32勝3敗という圧倒的なものだった。冒頭に紹介した先輩の言葉はここでも助けになった。店のある東京の銀座には画廊が多く、いい絵画をただで見ることができた。デパートのディスプレイもおおいに参考になった。八百屋の前を通ると、1分間でかぼちゃの料理を5つあげてみるといった問題をときには自らに課すこともあった。だが、不思議と対戦に関するプレッシャーはなかった。勝敗は関係なし。無心でただ料理を楽しんだのだ。
料理を専門とするアメリカの大学に呼ばれたことがある。名だたるアメリカの料理人が驚いた。どうしてそんなに静かで速いのかと。それはまるで舞いのようだった。2005年には厚生労働省から「現代の名工」として表彰された。異端と呼ばれた男はもはや日本政府も認める料理人となったのだ。「とてもうれしかったです。でも、将来何になりたいかと中学生に聞いたアンケートで、料理人が第三位になったのですが、それもあの番組をやってよかったことのひとつでした。それから、私がゴルフが好きだったので、フレンチにイタリアン、中華といった料理人の人たちとの交流ができたこともそうです」。
70歳を超えた今では、店の厨房に立つことも少なくなった。数多くの弟子も育ててきた。「気配りのある奴、思いやりのある奴が大成します。仲間が洗い物をためていても、平気で先に帰るようなことではだめなんです。男の子は弱い者を助ける義侠心がなければなりません。若いうちはたくさん恥をかいたほうがいい。恥の数ほど男を作るのです。最初からできる奴はいません。失敗を恐れないでほしい」。
今でも家庭で料理を作る。「僕は魚、料理は海」。道場さんが好きな言葉だ。自分から料理を取ったら何も残らないという意味だ。