つるぎみゆき●富山県富山市出身。1974年、宝塚歌劇団入団。「虞美人」で初舞台。1985年、大地真央の後を受けて、月組の男役トップスターになる。1990年、「川霧の橋/ル・ポアゾン」をサヨナラ公演として、同劇団を退団。その後は、舞台を中心に活躍、近年では映像面にも活動の場を拡げる。1993年、第18回菊田一夫演劇賞受賞
宝塚に憧れる女性は多い。宝塚をめざす少女も少なくない。中には、宝塚音楽学校を受験するために子どものころから音楽やダンスのレッスンを続けている子もいる。母親も宝塚のファンで、いわゆるステージママと呼ばれる人もいて、「受験戦争」を加熱させているようだ。
その点でいえば、剣さんの場合は珍しい。宝塚に行きたいと思ったのは高校生になってからで、宝塚の中に特別憧れているスターがいたわけでもなかった。
高校時代には演劇部に入っていたものの、宝塚を受験するためのレッスンをしていたわけでもなかった。たまたま、テレビで放送していた宝塚の番組を見たのがきっかけだった。
実のところ、宝塚がどういうところなのかをよく知らずに入ったのだ。
「受験してみて、アチャーッと思いました。みんながしのぎを削っていて、入学してからも、同期生との力の差を感じました。授業が終わってからも個人レッスンに通う人がほとんどでした。私にはそんな余裕すらなかったですから」。ただし、同期生をうらやむことはなかった。授業が終われば、学校のピアノなどは自由に使えるので、ひとりで練習に励んだ。宝塚の生徒は宝塚劇場に無料で入れるので、先輩たちの舞台を観るため頻繁に通った。
「劣等感がかえって気を楽にしてくれたのかもしれません。あとは昇るだけですから、少しでも近づいていこうと思っていました」。
同期生は43人。その中でトップスターに昇りつめることができるのはごくわずか、トップが出ない期もある。剣さんは大地真央さんのあとを受けて、月組の男役トップになる。
ところが、ここでも剣さんは異色の存在となってしまう。昭和60年以降の男役の中では身長が162センチともっとも低かったのだ。男役として不利であることはいうまでもない。それでも、剣さんはひるまなかった。
「身長が高く手足が長ければ、それだけで大きく見えるわけではありません。私は娘役を背の高さではなく、気持ちでリードしようと、男の人がもつ包容力などを出せるように心がけました」。華やかにみえるショービジネスの世界だが、力がなければ生き残ってはいけない。それは宝塚でも同じだった。それでも、誰かに勝ちたいとか、トップになりたいとかと思ったことは一度もなかった。
「初舞台を踏み、3年はいたいというのが入学した当初の希望でした。やればやるほど楽しくなってきたので、好きなことをやれることがすばらしく感じるようになり、それはトップになっても変わりませんでした」。
剣さんがトップだったころの月組の雰囲気は最高だったという。子どものころから協調性は高かった。みんなとひとつのものを作るのが好きだったのだ。
「わがままを言って全体のペースを乱してもいいことはありません。でも、自分を犠牲にすることもありません。目標がはっきりしているのであれば、意見を戦わせるべきです」。
あれこれと指示を出すのではなく、背中で引っ張っていくタイプのリーダーだった。トップになって4年目。引退試合の最終打席でホームランを打った選手をテレビで見た。巨人の中畑選手だった。その引き際の清々しさに共感し、宝塚からの退団を決意する。
退団後も、剣さんは舞台にこだわってきた。
「舞台はライブですから、1日1日が生きているものなのです。その日のテンションをお客さんと共有することができます」。
1993年には「蜘蛛の巣」の演技が評価され、大衆演劇の舞台においてすぐれた業績を示した芸術家に贈られる菊田一夫演劇賞を受賞し、演劇界で確固たる地位を築く。
2006年には連続TVドラマへの出演を果たし、その活動の場を拡げるが、舞台に対する想いに変わりはない。
2007年における剣さんの舞台人生は、2月10日から東京芸術劇場で行なわれるミュージカル「カーネギーの日本人」によって幕が開く。