てんりゅう・げんいちろう●1950年、福井県勝山市生まれ。1963年、大相撲二所ノ関部屋に入門。天龍の四股名で西前頭筆頭まで上り詰めるが、親方の死去に伴う後継問題に巻き込まれ、いったん幕下に落ち、再入幕をはたした後に廃業。1976年、ジャイアント馬場が創設した全日本プロレスに入門。主なタイトルは、三冠ヘビー級、IWGPヘビー級、日本J1選手権、PWFヘビー級、UNヘビー級など多数を獲得。
ジャイアント馬場が亡くなり、アントニオ猪木が引退を表明して久しい日本のプロレス界にあって、常に先頭を走ってきたのが天龍源一郎さんだ。
馬場と猪木の双方からピンフォール勝ちをしており、この偉業を達成した日本人レスラーは天龍さんひとりしかいない。
ところが、プロレスラーとして注目されるようになったのは、30代、それも半ばにさしかかったころだった。格闘技の世界に足を踏み入れた13歳のときからかなりの年月がたっていた。
実家は福井県の農家。冬になるとまわりは雪深くなる。都会の暮らしも角界のことも何も知らずに東京の相撲部屋(二所ノ関部屋)に入った。いや、半ば強引に入れられたといえるかもしれない。
「(東京に行くのが)いやだったので友だちの家へ逃げ込んだんです。そこで力道山が刺されて死んだというニュースを聞きました。初めて二所ノ関部屋へ行ったときに力道山の写真が飾ってあったのには驚きました」。
力道山といえば日本のプロレスを創った人だが、もともとは関脇まで勤めた力士で、二所ノ関部屋の出身だった。まだこのときは自分も同じ道を歩むことになるとは夢にも思っていなかった。
中学2年の少年にとって東京での生活はすべてに驚きだった。しかし、先輩からのゲンコツも、朝3時半に起こされることも、こんなものだと思って耐え忍んだ。
「へんに予備知識がなかったから我慢できたんでしょう。得体の知れない世界であってもいろいろと調べずに飛び込んでしまうのもひとつの方法かもしれません」。
角界で明確な目標のなかった少年も時がたち、後輩が入門してくるようになると少しずつ意識が変わっていった。努力は正直なもので、前頭の筆頭にまで出世した。
だが、ここでまた転機が訪れる。部屋の後継者問題がこじれ、廃業を余儀なくされてしまったのだ。この件について天龍さんはあまり多くを語らない。
「自分が身を引けばうまくいくと考えたんです。そんなときに馬場さんの知り合いからプロレスに誘われました」。
このときも、プロレスのことなどよく知らずに、「得体の知れない」リングの世界に入っていった。華々しいデビュー戦が用意されているわけでもなく、すぐにアメリカへの武者修行に出された。しかも単身で。
前頭の筆頭の力士にもなれば、身の回りのことのほとんどは付き人にまかせればよかった。それが、アメリカではすべて自分でしなければならない。しかも、言葉は通じない。それでもアメリカは天龍さんを大きく変えた。
日本人だからという理由で試合からはずされたこともあったが、日本人だからお呼びがかかったこともあった。罵声も浴びた。プライドも捨てなければならなかった。おかげで、鋭角だった性格が楕円形になった。
何よりもプロとは何か、ショービジネスとは何かということを学んだ。
「特に師匠と呼べる人はいませんが、あえていうなら角界であり、プロレス界です。やはりそこで自然と『忍』が身につきました」。天龍さんが所属した全日本プロレスには新人のころからスポットライトを浴びてきたジャンボ鶴田というエリートがいた。華麗な技をくり出し、そのスマートな姿は、寡黙でひたむきな姿勢を貫く天龍さんとは対照的だった。アントニオ猪木が率いた新日本プロレスにもエリートの藤波辰爾がいたが、その影には長州力という男がいた。
天龍さんと長州力の戦いはファンの心をつかみ、エリートレスラーたちを凌駕するほどの人気を集めた。そして、天龍さんは「Mr・プロレス」という称号を得る。
ただし、代償は大きかった。まさに満身創痍だ。スポーツ選手はケガをすれば試合を休む。ただし、プロレスラーは例外だ。
「お声がかかるかぎり、リングにあがっていたい。お客さんを喜ばせるのがショービジネスであり、プロですから」。
56歳。今日もリングに立つ。