様々な分野の第一線で活躍する一流のプロたち。その仕事には、どのような試行錯誤があり、それをどう乗り越えているのだろうか。その道をリードするプロフェッショナルたちの言葉から、仕事の醍醐味、奥深さを感じ取って欲しい。

プロフェッショナルが語る私の仕事道

「スポーツウエアには人の命が懸かっている」
名アルピニストから学んだ、ぼくの原点

信頼関係を築き、感動を共有するそれが一番大切

 2006年、単独世界一周ヨットレースに参戦し、世界第2位の成績をおさめた海洋冒険家・白石康次郎氏。そのレーシングウエア開発の総責任者だったのが、スポーツアパレルメーカー「ゴールドウイン」グループの沼田喜四司さんだ。

 白石氏が挑戦するヨットレースは過酷であり、赤道用、南氷洋用、2種類のレーシングウエアが必要となる。白石氏の要望は主に3点に集約された。

「一つ目が一分以内に着用できることです。これは例えば夜、船外作業が必要となったときに、素早く対応できるようにするため。時間がかかればそれだけ生命への危険性も増します。二つ目はどんな状況下でも海水が内部に入らないこと。とりわけ首の襟から入らないようにするのに苦労しました。そして三つ目は強風で物が飛んで当たっても、ケガをしないこと、つまり強度ですね。この3つをクリアーするために、白石さんとは何回もお会いし、試作、着用、改良を繰り返しました。そしてマイナス40度からプラス80度までの環境を、人工的に作り出す施設も利用し、実際に耐えうるのか評価実験を行ったのです」

一年後、レーシングウエアは完成し、白石氏は大航海に乗り出した。ところで沼田さんは、赤道や南氷洋の過酷な環境をどうイメージしたのだろうか。

「実際に体験することはできないので、とにかく話を聞きました。私はこの仕事で何が一番大切かと聞かれたら、信頼関係だと答えます。相手の話を聞く。相づちを打つだけでなく、自分の言葉で返す。間違っていたら訂正してもらう。徹底的に話し合い、相手と自分とのズレを限りなくゼロにするんです。そうして信頼関係を構築することで、同じ感動を共有できます。白石氏と共有した感動は、無事にレースを完了する、ということでした」

これからは作るだけでなく、伝えることにも力を注ぐ

 沼田さんは高校で機械設計を学び、入社後は機械メンテナンスの部門に配属された。3年目の時、「機械製図ができるなら服の製図もできるだろう」と言われ、スキーウエアの開発部門に異動。時代は札幌オリンピック開催の数年前。スキーウエアに力を入れていくための抜擢だった。

先行する海外の技術を学ぶため、フランスの製品を取り寄せ、フランス人の技術者からも教わりました。彼らには平面でなく立体で考えろと言われたんです。私、小学生の頃から『夜高あんどん祭り』のあんどんを作っていたんですよ。だからむしろ立体は得意だったんですよね」

  地元津沢のあんどんは、竹で骨組みをし、紙を張って作る。いわばワイヤーフレーム構造である。意外なところで沼田さんを支えることとなった。その後スキーだけでなく、テニスやゴルフウエアも手掛け、沼田さんの名声は高まっていく。

  そんな沼田さんが生涯の転機ともいえる人物、できごとに出会った。世界的な名アルピニスト、長谷川恒夫氏だった。

1979年、長谷川氏は冬季ヨーロッパ三大北壁単独登攀(とうはん)の締めくくりとして、グランド・ジョラスに挑戦した。マッターホルン、アイガー、そしてグランド・ジョラスの制覇は、超人的な能力が要求される最大級の冒険。成功すれば歴史的金字塔となる快挙だった。厳冬下のアルプスはマイナス30度に達し、背負う荷物は40kgを越える。このウエアを開発したのが沼田さんだった。

「私は日本で、ヘリコプターが空から映す映像を固唾を飲んで見守っていました。グランド・ジョラスの頂上に長谷川さんが立った時、私、涙がボロボロとまりませんでした。その時に心に刻み込んだんです。私のウエアには人の命が懸かっているんだと」

この登攀は「北壁に舞う」という記録映画にもなった。長谷川氏はその後も数々の山を征服し、1991年、ヒマラヤで雪崩に遭い、帰らぬ人となる。

「私のこれからの仕事は、今やっている宇宙船内用のウエアと、リハビリ用のウエアを完成させること。そして良き後継者を育てることです。命の懸かった仕事であり、感動を共有できる素晴らしい仕事であるということを、より多くの若者たちに伝えていきたいです」

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