標本もない。資料もない。
行き詰まりの中で開けた、明日への扉
独学に限界を感じだした頃、「中国の竜王」と出会う
日本の恐竜研究の歴史は浅い。初めて骨が出土したのは1978年。それまで日本に恐竜はいなかったとされていた。
1978年以降、岩手県を皮切りに、骨や化石が各地で出土。福井県勝山市でも1989年から発掘事業がはじまり、3000点以上が掘り出された。この発掘事業の中心となったのが東洋一さんだ。だが発掘後、手探りの作業が続く。
「日本に恐竜はいなかったと思われていたから、照合する標本や文献がないんですよ。研究には比較が必要なのに、それができない。当時恐竜の標本は、東京の国立科学博物館などに数種類ある程度だったのです」。
東さんは研究と平行して、資料収集に奔走する。しかしそれにも限界がある。背骨の骨、脚の骨、まではわかるが、具体的な種類の特定にまでは至らなかった。
そんな時に出会ったのが、中国で「竜王」と呼ばれる、恐竜研究の世界的権威・董枝明さん。きっかけは、とある打ち合わせで董さんの妻である陳徳珍さんと知り合ったこと。さっそく董さんを紹介してもらった東さんは、化石のレプリカを握りしめ、自費で北京の研究所を訪れる。東さんが化石を見せると、「これはアロサウルスだ」と即答し、標本を持ち出して、「ここの骨だ」と部位まで特定した。
「研究に行き詰まっていた私にとっては、まさに衝撃でしたね。あの出会いは、私の人生の大きな転換点でした」。
東さんはそう述懐する。以降、二人の交流ははじまり、東さんは董さんを師と仰ぐようになる。
恐竜を仕事にできるとは思いもしなかった時代
恐竜を専門としている研究者は、今でもほんの一握りである。東さんが学生だった当時、恐竜の専門家は皆無に等しかった。
小学生の頃、東さんは学習塾の先生に連れられて化石採集を行い、クジラの化石を発見した。以来古生物に魅了された少年は、その気持ちを抱いたまま成長し、福井大学教育学部に入学。地質学を専攻し、卒業後、教職などを経て、福井県立博物館(現・福井県立歴史博物館)で地質学の学芸員となった。
東さんが主に研究していたのは、「日本海がどうやってできたか」。約2200万年前まで、日本列島は大陸の一部で、日本海は存在しなかった。日本列島が大陸から分裂する過程で広がっていったのだ。
転機が訪れるのは1985年。その3年前に、石川県の手取層群から出土された石が東さんのもとに持ち込まれる。
「最初は私が研究している新生代のサメの歯かと思いました。でも付随する貝の化石が、新生代のものではない。ひょっとして新生代より前の、中生代の恐竜の歯ではないか? だとすれば、地層的に近い福井県でも恐竜の化石が出土するのではないか? そう思ったんですね」。
東さんは福井県と協力し、勝山で国内初の本格的な恐竜発掘作業に着手。大きな成果をあげ、勝山を日本最大の恐竜産地におしあげる。董枝明さんとの出会いは、この後のことである
成功の条件は行き詰まるまでやってみること
現在、東さんの活躍の場は海外にも広がっている。しかし海外での発掘といえば聞こえはいいが、作業は地味で過酷だ。熱砂のゴビ砂漠では気温が50度以上に上り、熱射病で倒れることもある。キャンプ地と発掘現場を往復するだけの毎日が延々と続く。「化石が出るとうれしい、単純にそれですよね。独学でやっていた30代も、それがあるから全くつらいとは思わなかった。化石が出るにはいくつか条件があるのですが、そのうちの一番大きな条件が、『やる側の根気』です。場所が正しければ出る。途中でやめてしまえば出ないんです」。
恐竜後進国だった日本でも、より大きな化石、より完全な化石が出土するようになった。東さんは日本の研究が確実にステップアップしているという手応えをつかんでいる。未来を予測するのは過去。これまでも地球の環境は何度も激変し、生物は絶滅と進化を繰り返してきた。恐竜を研究することが現在、あるいは未来に活かされれば…、そう信じて、今日も東さんは化石を調べ続ける。